奥の細道の足跡を尋ねての旅

芭蕉の足跡をたずねて・・・塩釜より松島・登米まで。

前回、伊達62万石の城下町仙台、奥州へと入った芭蕉の一行。

5月4日(新暦6月20日)のことでした。

”あやめふく日也”と原典には記されています。

奥州白石より歌まくらの多い多賀城まで・・・・・

前回のこの地へは、残念ながら私は都合により参加できませんでした。

来年に持ち越しとします。

そして今回は、いよいよ陸奥の国入り、塩釜より松島・登米までを訪ねてまいりました。

歌枕の地をめぐって満足した芭蕉さんはそのまま塩釜まで行き、

塩釜神社の裏参道辺りにあった法蓮寺、

今は廃寺となっていますがこの門前の宿に泊り翌朝塩釜神社を参詣しています。

Img_7317 表参道の202段の直線石段、

原典で

”石の階(きざはし)九ジンに重なり・・・”

と書いてありますが、

決してオーバーではありません。

私は、一気に登りました。

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登りきったところには塩釜神社の桜門。

四代綱村が八年の歳月をかけて

造営した桃山様式を取り入れた

朱色の社殿です。

芭蕉はこの旅の目的のひとつに

松島の月と塩釜桜をあげています。

葉と同時に、花ビラにしわのある八重の花が咲く天然記念物です。

盛りは5月初旬、芭蕉が訪ねてきた時は、今と同じ頃、

残念ながら咲いている姿を見ることはできませんでした。

塩釜桜、もっと古木の木かと思いきや、結構若木?の感じでした。

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”神前に古き宝燈あり・・・・・・”

芭蕉が感激したもうひとつの、古き宝灯。

文治三年和泉三郎忠衝敬白の刻字があります。

忠衡は藤原秀衡の三男、兄泰衡に抗して義経への義を貫き討たれたという歴史的な宝灯です。

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芭蕉翁の奥の細道碑(塩釜の抄)

Img_7332 塩釜の浦に入相のかねを聞く

という題にして

五月雨の空いささかはれて・・・・その間二里余り

雄島の磯に着く・・・・・・・。

と刻まれています。

”松島の月先心にかかりて”と、

江戸を出発した芭蕉の最大の目的地が松島でした。

芭蕉たちが、塩釜から船で松島海岸に上陸したのは、

五月九日(新暦6月25日)

今の私たちとほぼ同じ頃です。

芭蕉と曾良は小船を借りてお昼頃雄島に着いたといわれています。

Img_7356さて私たちもこれから遊覧船に乗り

松島湾をめぐります。

海岸は千賀の浦ともいい、

是も歌枕です。

芭蕉と曾良は小船を借りて・・・

その船は帆かけ船であったのか、

それとも櫓を漕いでめぐったのか・・・・・・。

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そもそも昔から云い古さえてきたことであるが、

松島はやはりわが日本国で

もっとも景色の美しいところだろう。

その様は自然のものでありながら、

人工の技の限りを傾けて

作り出したかと思われる。

大自然の力で

限りなく精緻なできばえになったこの景色は、

どんな名人の手を借りても

描ききれるものではないし言い表せるものでない・・・・・・・。

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奥の細道の原典には、

このような感動の言葉が書き綴られていました。

松島の景色を見て

、芭蕉ほどの感動はなかったにしても、

同じ季節に同じ場所で、

同じ景色を見て、同じ空気をすっていたのかと思う

このことに深く感動を覚えた私でした。

芭蕉はこんなにも感激した松島なのですが、ここでは一句も詠んでいないのですね。

あまりの素晴しさに句も出てこなかった?のでしょうか・・・。

まァ~、これも、よきかな・・・・・・。

明日は、瑞巌寺、雄島めぐりをいたします。

 

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奥の細道・・芭蕉を追って 第6回その2 国見・伊達の大木戸

芭蕉が辿った会津の地二日目、今日はまず、医王寺からです。

医王寺、平泉藤原家に仕えていた、佐藤基冶とその子供、

義経とのかかわりのある、継信・忠信兄弟の菩提寺として知られているお寺です。

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山門を入ると、

目を見張るような

満開のサクラがさきほこっていました。

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杉並木の参道をすすみます。

朝のひんやりとした空気のすがしさに

心洗われる思いです。

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正面に建っているのが

薬師堂。

弘法大師の創建、大師の作と伝えられる薬師如来が本尊です。

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薬師堂の後ろには、基冶夫妻と
兄弟のお墓が並んでいました。

巨石を数個積み重ねた
面白い形のお墓です。
昔からこんな形だったのでしょうか。

芭蕉は、義経大好きだったそうです。

義経好きの芭蕉が、ここを見逃すはずありません。

平家と戦い屋島で義経の身代わりとなって戦死した継信、

義経が兄、頼朝に疎まれて平泉に落ちるさい、やはり身代わりとなって自害する忠信、

この二人の子を失った母の嘆きを、兄弟の嫁がそれぞれの夫の甲冑を着けて凱旋の様を母に見せ、慰めたたという逸話にも、芭蕉は深く感動して、涙、茫々だったと伝えられています。

又、境内に新しく完成した宝物館には、
弁慶の笈や、直筆の下馬札、兄弟がつけた鎧などが陳列してありました。

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”笈も太刀も さつきにかざれ 

紙のぼり”

芭蕉の句碑が建っています。

又、薬師堂までの参道の側に

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義経を真ん中に

佐藤兄弟の銅像も

建立されていました。

佐藤家の墓所のあたりから北へ目をやると、小高い丘が見渡せます。
佐藤基冶の居城だった大鳥城跡です。

”おくの細道”に芭蕉は佐藤庄司が旧館(やかた)を訪ねる・・・とあります。
旧館とは、大鳥城跡のことです。
大手門の前に佇んだ芭蕉は、昔のことを偲んで涙を流した・・・とかかかれています。

住宅街の道の片隅、わからないくらいの片隅に
置去りにされているかのような、”大手門跡”石碑が建っています。
往時の面影は偲ぶべくもありません。

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大鳥城本丸跡。
広い公園広場となっており、
大鳥神社、
大鳥城跡(吉川英冶撰文)の碑が
たっています

頂上斜面には、いろいろな花が植えられていて、花時の美しさが偲ばれます。

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又頂上からは
飯坂の温泉街、
吾妻山などのながめられ、

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真下に広がる
桃源郷の世界の
素晴しい光景に
心安らぎました。

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山頂近くには
空壕の跡もあり、
当時が偲ばれます。

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その周りは野原と化し
オドリコソウの群生,ふきのとうの花
白いタンポポまで見られ
昔の子供頃、野原で花つみに
興じたことが
つい前のことのように
思い出されてしまいました。

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ちょうどローカル線の列車が通過です。

良い具合にシャッターチャンスです。

のどかなのどかな、

大鳥城空壕跡でした。

Img_6781 伊達の大木戸、国見峠。
頼朝が、奥州藤原を攻めたおりの
激戦場、佐藤基冶は
ここで討死しています。

芭蕉は前日泊った飯坂温泉の宿が、
あまりに粗末な宿だあったため、持病まで起こって、気を失うほどまでの苦痛を味わったと、”おくの細道”にはかいています。

一晩中、雨漏りや蚊、のみに攻められて眠るところでなかった。
夜明け早々に旅立ったが、前夜の寝不足がたたり、一向に心が弾まない。
これからさきは、まだ遥かな道のりである。そこへこんな病気が出るようでは
なんとも心細い。今回の旅は遠く離れた未開の地を回るものだし、自分は
俗界を捨てて、人の命は無常だと覚悟もし、道の傍らで死ぬようなことがあっても
それは天命というものだと覚悟してでてきたはずなのだ。
ソウ考え直すといくらか元気も出てきて足取りも軽くなり、伊達の大木戸をこした・・・・・。

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看板が掲げられていました。

こうして芭蕉は、気持ちを取り戻して

奥州の雄伊達家の領域に

入っていきました。

”飯坂に泊り・・・・・・翌日桑折の駅にでる”と記されている桑折の町、

ここにある旧伊達郡役所を訪れました。

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大正15年廃止になるまでの43年間、郡行政のやくわりをになってきた、
壮麗な明治様式庁舎です。
今重要文化財と指定され、往時をしのぶ威厳ある風格で町のシンボルとして
保存されているそうです。

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旧事務所から

旧郡長室をみています。

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ぐるっと張り巡らされた窓は、

すべて上げ下げ窓。

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窓から見えるサクラ、

美しい!

いい雰囲気です。

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天井の吊り下げランプ

その中心飾りのシンプルで美しいこと。

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2諧へと続く階段

ちょっと急勾配が

恐い感じででした。

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2階から見た桑折の町。

見える山は半田山。

この山は銀山としても栄えたそうです。

2階の部屋には当時の銀採掘の模様が
展示されていました。

こんなハイカラな建物の中で、羽織袴姿のお役人がお仕事をしていたのですね。

当時の様子を、思い浮かべてしまいました。

ちょっとおくの細道から寄り道をしてしまいましたが、

次回は伊達の領地、白石を経て、岩沼に入ります。

歌枕地武隈の松からです。其れでは又。

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奥の細道、芭蕉を追って 第6回その1 黒塚・観世寺

1月を最後に休憩をしていた芭蕉の旅、

気候も良くなり再開です。

芭蕉が歩いた頃と、時を同じく、もっと芭蕉に近づきたくて・・・・・。

好天のなか、車は福島、郡山へと走ります。

都心は霞がかかっていたけれど、栃木を過ぎた辺りから山の景色がはっきりと見えるようになってくる。やはり空気がきれいなのでしょうね。

Img_6646 那須連山の茶臼岳・朝日岳です。

ここは二座登っていて懐かしいです。

Img_6653 そして、鶏頂山

Img_6649 満開のサクラも

遥か遠くに見えています。

Img_6655_2  休憩したパーキングエリアから見た

安達太良山連邦です。

高村光太郎の”智恵子抄”で

有名になった安達太良山、

右端の雪をかぶっている山です。

車は順調に走りぬけ会津の町へと急ぎます。

芭蕉は、今の東北本線日和田駅の側の旧道を北へ歩きました。

歌枕として古来有名な安積山(あさかやま)・安積の沼を訪ね、

ここで、古歌に詠まれた”花かつみ”について特別な関心をいだいており

”いづれの草を花かつみとは云うぞ”と人々にたづねたが誰も知らなかったので

”花かつみ、花かつみ”といって歩いていたそうです。

花かつみとは、いろいろな説はあるのですが最終的に

今でいうヒメシャガの花のことなのだそうです。

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是が今のヒメシャガです。

今でこそあちらこちらに咲く姿を見られるのに、

当時は花数が少なかったのですね。

さて今回の芭蕉の旅で最初の訪れる地、鬼婆伝説の地黒塚へまいります。

その途中、芭蕉は、二本松市にある亀谷観音堂へお参りしています。

(二本松市は、詩人高村光太郎の妻智恵子のふるさととしても有名ですね。)

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”春鏡塚”と呼ばれる句碑がぽつんと建っているだけの、ひなびた侘しげな観音堂でした。

芭蕉はここに佇みどんなことを思い

手を合わせたのでしょうか。

いよいよ奥州安達ケ原、鬼婆伝説の地黒塚へと入ります。

芭蕉たちが歩いた頃はここ安達ケ原はうっそうとした荒漠たる原野で、ここに大きな
奇岩怪石、鬼婆の住処であった岩やが今でも残っているのです。
観世寺という境内にその岩屋はあり、

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この大きな笠岩の下に仮の庵を造り
旅人を泊らせては、殺していたところです。Img_6679

鬼婆の話はもちろん伝説でありますが、

其れではこんな大きな石の
岩屋は何であったのか。
一説では、阿武隈川を渡って北進してくる内地人を、この一線で防御するための古のトーチカではなかったかとも言われています。

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この岩屋には、正岡子規も訪れており

”すずしさや聞けば昔は鬼の家”

子規の句碑が建っていました。

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境内を出て、何もない阿武隈川の土手の近くに
大きな杉の木がぽつんと立っているのがみえます。
老杉の根元には”黒塚”の標柱、
そして、”みちのくの安達ケ原の黒塚に
鬼こもれりと聞くハまことか 平兼盛”
の歌碑が建ててありました。

歴史的事実はともかくもして、
ここは鬼婆を埋めたとする
お墓に間違いなさそうだということです。
そして、この老杉は
墓碑に相当するのだそうです。

気の弱い芭蕉は奥の細道に
”日は山の端にかかりぬ”
とし、長居は無用と
急ぎ、ここを立ち去ったのでした。

恐い伝説をよそに、ここ安達ケ原は今、ふるさと村という公園施設となっており

Img_6669 広い敷地内には、

茅葺の屋根のふるさと村が

再現されており、

手入れの行き届いた春の花々

そして遠くには、
満開のサクラが
たくさん咲き誇り
のどかな里山の風景に、何かほっとした気分にさせられました。

翌日5月2日、芭蕉は、著名な歌枕、信夫(シノブ)の里文知摺(もじずり)

にむかいました。

そして、信夫文知摺(しのぶもちずり)の地、文知摺観音堂にある伝説の

文知摺石を訪ねています。

阿武隈川の山すその小高い丘の上に建つ観音堂、小さな橋を渡ると

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サクラに囲まれた

芭蕉の銅像の

お出迎えです。

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鐘楼もサクラにかこまれ

美しい姿です。

サクラに導かれて

奥の境内へと足をすすませると

小高い所に”早苗とる・・・”

の芭蕉の句碑がたっており、

さらにその奥へすすむと、
谷間のようなところに、
伝説の石、文知摺石が、柵にかこまれ、ひっそりとありました。

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是が文知摺石です。

観音堂のご住職さんが、この石についての詳しい説明をしてくださいました。

かつてこの地は、風雅な模様の”もちずり絹”の産地であって、平安時代には実際に、布を模様のあるこの石の上に当て、しのぶ草などの緑色の葉や茎をそのまま布に摺りこんで染めていたのだそうです。”もぢずり”はもじり乱れた模様をいっているとのこと。

公家の狩衣などに、そのひなびた味わいが、たいそう愛用されていたのだそうです。

又この石には、都からのあぜち(巡察官)の源融と、
長者の娘、虎女との悲恋物語の伝説も残されていました。

Img_6692_2 芭蕉の句

”早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺”

芭蕉はしのぶ摺への憧れが強く、

既に、
摺り染めが行われなくなっていることを知り
とっても落胆したのだそうです。

Img_6709 明治26年の夏、俳人、正岡子規は、

ここへも立ち寄って、

”涼しさの 昔をかたれ しのぶずり”

と、詠まれています。

この句碑にかかれた書は

子規の真蹟に基づくものだそうです。

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静かな、質素な美しさのある観音堂

境内をゆっくり歩いていると

文知摺石悲恋の二人のお墓が。

つい最近の建立らしき

立派なお墓でした。

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側の湿地帯の沼に

偶然にも、水芭蕉の花が

寄り添うように

二輪咲いていました。

虎女と、源融なのでしょうか。

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文知摺石の見学を終えた芭蕉は

阿武隈川の月の輪の渡しをこえて

飯坂温泉に宿を取ります。

阿武隈川の流れは当時も

今と変わらずに、このように

ゆったりと流れていたのでしょうね。

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私たちも今夜は

芭蕉が身体をやすめた飯坂温泉に

泊ります。

今日一日の芭蕉を思いながら、

沈み行く夕日を眺めました。

明日は、義経に従い、平家と戦った継信、忠信兄弟の菩提寺、医王寺から始ります。

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奥の細道・・芭蕉の足跡を訪ねて第5回その2 須賀川へ

な~ンにもない、うら寂れた温泉地(この地に住んでいられる方、ごめんなさい)。
まわりの環境にそぐわないほどの
豪華な絢爛としたホテルに一泊した私どもでした。

芭蕉らは、4月20日に白河の関を越え陸奥入りをし、その日は
旗宿に泊り、翌日阿武隈川を渡り磐梯山を仰ぎ見ながら、
矢吹というところに宿を取りました。
そして翌22日,奥州街道を北上し須賀川(今の福島県須賀川市)に入ったのです。
当時の須賀川は、奥州街道の宿場町として、経済的、文化的に
繁栄を極めていました。

ここに、かねてから親交のあった、俳諧の知人相楽等窮(さがらとうきゅう)を訪ね、
等窮宅に8日間滞在します。

相楽等窮は別号を乍単斎といい、
須賀川俳壇の指導的立場にあったといわれています。

Img_5730 等窮宅は残っていませんが(現在)

かなり大きな屋敷跡であったことがわかります。

その夜、等窮宅に泊った芭蕉と曾良は三人で早速に歌仙を巻きます。

等窮は”白河ではどんな句を詠んで越えられましたか”と芭蕉に聞きました。
芭蕉は「長旅で心身ともに疲れ、その上、素晴しい風景に心奪われ
いい句が浮かびませんでした。
しかし、歌いながら田植えをする、趣ある光景を目にして、旅にでて最初の風流な味わいを感じ、何の句も詠まずに通り過ぎることもできず・・・・・といって詠んだ歌

”風流の 初やおくの 田植うた”

この句を発句に三巻もの連句が出来上がった・・・・と曾良の日記に書かれています。

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翌日、等窮屋敷の片隅に庵を結ぶ
僧、可伸を訪ねます。
大きな栗の木陰を借りて、
俗世間を避けるように質素にひっそりとくらしている、そんな生き方に共感を持った芭蕉、歌会を開く約束をして帰りました。

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可伸庵跡になる大きな栗の木です。

可伸のつつましい生活ぶりと人柄に改めて深く心打たれた芭蕉、

”かくれ家や 目立たぬ花を 軒の栗”

と詠んでいます。

軒の栗の花、開花期は白河の関跡付近の卯の花と同じ頃に、きれいな白い花をつけるとか。

Img_5706 須賀川滞在中に詣でたお寺
十念寺。

江戸時代の女流俳人
市原多代女によって建立された、
芭蕉の田植え歌の句碑がたっています。
(写真右端)

余談ですが、東京オリンピックでマラソン3位となり、後、自ら命を落とされた円谷選手の立派なお墓が境内にありました。

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神炊館(おたきや)神社

須賀川の総鎮守である神社
芭蕉はここにも参詣しています。

この鳥居、上杉景勝が寄進したもの、

今にも倒れそうな鳥居、金具で支えられている姿が痛々しそうでした。

Img_5714 須賀川城・本丸の跡地に建立された
二階堂神社

後に伊達政宗により落城し、
これだけの姿となっています。

二本の立派なケヤキの木

歴史や芭蕉の訪れも見ていたのでしょうか。

須賀川に8日間滞在した芭蕉、29日等窮宅を発ち、郡山へと向います。

途中乙字が滝に向います。

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瀧の落差は3~4mですが、
阿武隈川にかかる唯一の瀧で、その形が乙の字に見えるのでこの名が付いたそうです。
芭蕉が訪れた日は、雨上がりの翌日、水かさも大変多く、阿武隈川の川幅いっぱいに流れ落ちる滝は豪快そのものの眺めであったと思います。

”五月雨の 滝降うづむ 水かさ哉”

須賀川、そして阿武隈川にも別れををつげ、

再び山間の街道を郡山へと向った芭蕉たちでした。

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奥の細道・・・芭蕉の足跡を尋ねて第4回その1

素晴しい朝を迎えました。

昨日の寒さがうそのようです。

今朝方ひどい寝汗とともに目が覚め、

何かつきものが体から落ちたかのように

やっと病から抜け出たような気がしたのですが・・・・・。

まだ、食欲もあまり欲しくないし、すっきりとした気分ではありません。

そして夜になると気分が悪くなります。

それでもパソコンに向かう気持ちにもなってきました。

のびのびとなっている、先週訪れた奥の細道を書きあげなければ・・・・・。

一週間も過ぎてしまい、忘れかけてきています。

さて前回の芭蕉は、日光参拝を終え、裏見の瀧をみたあと、日光を離れました。

今回は、黒羽(栃木県那須郡)へと向かいます。

私たちを乗せたバスも、素晴しい好天の中、那須へと気持ちのよい走りを続けました。

その日もまた車窓から雪をかぶった男体山始め日光連山がくっきりと見えていました。

奥の細道の紀行文に、”那須の黒ばね(羽)と云所に知人あれば”と、記されています。

芭蕉は日光北街道を知人を訪ねて黒羽へ歩きます。

途中、土砂降りの雨の中、苦労をして7里歩き、玉生(たまにゅう)という村に泊まります。

当時この村は日光北街道随一の宿場町として栄えておりました。

ところが泊る宿があまりに粗末過ぎて、わらじの所望もままならず、

無理をいって、村の名主の家に泊めていただくことになりました。

Img_5319 芭蕉が泊ったという碑が建っています。

宿をお借りした名主は、大庄屋の玉生七郎衛門と称し、芭蕉は温かいもてなしをうけ、よく早朝宿を出発し黒羽へと急ぎます

この辺り一面、見渡す限り草茫々とした広大な那須の原野です。

道に迷った二人、草を刈っていた農夫に道を尋ねたところ、馬を借してくれました。

馬の後にかわいい子供がついてきます。名前を尋ねると”かさね”という。

田舎には珍しい優美な名前に感動した曾良は

”かさねとは八重なでしこの名なるべし”という句を残しています。

馬に助けられ、ヤット街道すじの村に出、お礼のお金を鞍に結んで、馬を返したそうです。

知人というのは黒羽に住んでいる愛弟子兄弟、桃雪とその兄翠桃です。

彼らとの再会を心から喜びあい、手厚いもてなしを受ける芭蕉です。

芭蕉は、黒羽には奥の細道全旅程のなかでもっとも長い14日間も滞在しています。

理由として、歴史的に名所旧跡が多かったこと、雨の多い時期であったこと、
門人など親しい人がいたこと、地理的にみちのく入り口にあたり、これからの旅の
心の準備期間を要したこと・・・が考えられているのですが、黒羽の人々の暖かい心遣いが芭蕉をひきつけたのではないかといわれています。

芭蕉は長い滞在の間、愛弟子のほか地元の俳人たちを交えて、風雅の足跡を残したり、二人の兄弟の案内を受けて、黒羽地内の寺院・神社、名所旧跡の歴史や伝説の地を訪ねあるいています。

行く先々で多くの俳句を遺しました。

そして今、多くの句碑もたくさん建っている黒羽です。

愛弟子たちとの最初の暖かな一夜を過ごした芭蕉、次の日雲厳寺に参詣します。

Img_5345 鎌倉時代に建立されたこのお寺、観光地でないためか、

静かなたたずまいの中の、美しい姿のお寺でした。

心が清まる思いで、

私も参拝いたしました。

Img_5344 山門のすぐ側には、

樹齢550年という、天然記念物の

立派なスギの木が

燦然とたっていました。

雲厳寺には、芭蕉の参禅の師である仏頂和尚の山居の跡があり、兼ねてからこの師の営んだ庵の跡を訪ねたいと念願していた芭蕉です。

和尚の心に触れたいという思い、追憶と思慕の念が、黒羽に着いた早々に雲厳寺へと駆り立てたのだと思います。

山居の跡に佇み芭蕉は、
”啄木も庵はやぶらず夏木立”と詠んでいます。
”木立の奥できつつきのつつく音が聞こえます。
この草庵は、住み古した跡ではあるけれど、
さすがに和尚の法力を恐れたのであろうか、
きつつきも突き破ることなく、今もここに残っていることよ”

山居の跡は本堂の裏山にありました。

今は立ち入り禁止となっていて残念ながら入ってみることができませんでした。

山門の側に苔むした句碑、仏頂和尚の句
”縦横の五尺に足らぬ草の庵、むすぶもくやし雨なかりせば”

このような生活や考え方は、芭蕉のそれと相通ずるものです。

14日滞在した黒羽、おもてなしを受けたお礼をつげ出発です。

4月16日(陽暦で6月3日)のことです。

私どもも今日は芭蕉より一足早く那須湯本へ到着し、

ここの温泉に体を休めました。

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奥の細道を訪ねて・・・・第3回 

11月の最後の日、”奥の細道を訪ねて”、行ってまいりました。

芭蕉の足跡を尋ねて、今回は日光入りです。

まぶしいほどの好天に恵まれ、

車は東北自動車道を気持ちよく走りぬけます。

車窓からはまたしても霊峰富士の姿が悠然と姿を現し、

日光市街地に近づくにつれ、

雪をかぶった、男体山を始め、日光連山がみえはじめました。

Img_5134_2 市内から見た

男体山と日光連山です。清々しい姿で街を見守っているかのように、どこからでもみることができました。

さて、元禄2年、3月27日(今の5月16日)の早朝、門人等に見送られ千住から旅たった芭蕉、一日目は春日部(今の埼玉)に泊り、日光街道を経て、室の八島を参詣し、栃木県鹿沼へと向かいました。健脚な芭蕉、三日目の夕刻には早くも鹿沼に到着しています。

芭蕉の足跡を尋ねる今回の旅の最初の訪れた場所は光太寺と言う小さなお寺です。

物の本には、鹿沼に泊るとあるだけで宿名は記されていませんが、ここ光太寺で一夜を過ごしたのではないかといわれているお寺です。

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長い階段を登ると正面が本堂。

後ろには竹林がひろがる、

風情あるお寺です。

Img_5140 このお寺で一夜を明けた芭蕉、昨夜来の雨に笠の雨漏りを危ぶみ、この寺で新しい笠に替えたといわれる笠塚がひっそりと建っていました。それは小さなまるで石ころのような笠塚、真っ赤なモミジの落ち葉に埋め尽くされていました。

すぐ側には鐘楼が、見守っているかのように立っていました。

Img_5145 光太寺の近くに

由緒ある今宮神社があります。

確かではないそうですが、立ち寄ったとされる句が句碑と共に残っていました。

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”君やてふ我や荘子の夢心”

Img_5149_2 唐門が美しい今宮神社です。

当時の宮大工さんの素晴しい技術力がかがい知れます。

バスは次の場所、例幣使街道を通り杉並木を走ります。

例幣使街道とは、京都御所(朝廷)より日光東照宮の4月の大祭に派遣された日光例幣使が通行した道筋で、当時の奉行松平正綱が20年かかって20万本の杉を日光の各所に植えつけたのです。杉並木もそのひとつです。

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芭蕉はこの道を歩き東照宮へとむかったのですが、芭蕉の目には、杉並木の印象は残るほどではなかったのか、この並木については何も触れてはいないのです。

延々と続く、樹齢3百数十年の杉並木が空を覆っていました。

私どもを乗せたバスはひたすら走ります。

長い杉並木を経て東照宮へ参詣した芭蕉、

”あらたうと青葉若葉の日の光”

と言う歌を詠んでいます。

東照宮に対する賛美、徳川幕府の勢威に対する敬意を現している句です。

次の日芭蕉は崖道から瀧の裏側を眺める裏見の滝へとでかけます。

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瀧へと続く山道は、木々の葉はすっかり落ち、もう冬山の様相です。

落ち葉を踏みしめながら奥深い山へと入っていきます。

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途中いくつかの小さな滝を見ながらたどり着いた裏見の瀧です。

”岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧に落ちたり。岩窟に身をひそめ入りテ瀧の裏よりみれば、うらみの瀧と申伝え待る也。”・・と、書物にかかれています。

そして詠んだ句
”暫時は瀧に籠るや夏の初”

又同行している曾良も

”うら見せて涼しき瀧の心哉”  と詠んでいます。

裏見の瀧を後に、次は含満ケ淵へと参ります。

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含満ガ淵とは、男体山が噴火した時に流れ出た溶岩によってできた、奇景をもたらす大谷川(ダイヤ川)沿いの渓谷です。この淵には慈雲寺、霊廟閣、そして
霊廟閣の正面に、弘法大師が筆を投げテ彫り付けたと言う伝説の岩、弘法の投筆、があります。

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さァ~、つり橋を渡ります。

当時はもちろんこんな橋などありません。芭蕉はこの下の渓谷を渡ったのですね。

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ここからも男体山が、手に取るように

きれいに見えていました。

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芭蕉の往時を偲びながら渓谷沿いを歩きます。

川の流れの音が不動明の”ジュク”のように響くと言う。

耳をすまして聞いてみました。

この流れの音、芭蕉はどのように聞かれたのでしょうか。

そしてここは、不動明が現われるという霊地でもあるとか・・・・。

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しばらく歩いて行くと、真新しい真っ赤な帽子、そしてよだれかけをしたお地蔵様がずらっと並んでいます。

約百体あるが、数えるたびに違うので
化地蔵とよばれているそうな・・・・。

気持ち悪いので急ぎ足でとおりぬけました(笑)。

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ところどころの雑木林の間から日光連山が垣間見られ、明るいところへでられ、何かほっとしました。

格好の静かな散歩道でした。

再びバスは日光市街地へと向かいます。

Img_5212_2 車窓より見たご神橋。

この橋を渡るのに300円支払うそうです。

神様の橋ですから。

Img_5208_2 ご神橋のすぐ近くの

レトロなホテル、

金谷ホテルをみながら、

バスは日光市街を走りぬけます。

芭蕉が日光市内で泊ったとされている鉢石宿を最後に訪れ、

今回の芭蕉の足跡を終えました。

芭蕉はこの後ダイヤ川(大谷)を渡り日光北街道を那須の黒羽へと旅立ちます。

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奥の細道を訪ねて・・・・・第2回

奥の細道を訪ねて、第2回、日曜日に行ってまいりました。

元禄2年、春未だ浅き3月27日(今の5月16日にあたる)、深川の住みかをあとにした芭蕉は、見送りの門人、友人たちと船に乗り、深川から隅田川をさかのぼり千住へと向かい

”行く春や鳥啼き魚の目は涙” 旅立ちの最初の一句を詠んで、旅たったことを、前回では、ご紹介しました。

千住は3台将軍家光の時日光道中の初宿に指定され宿駅としてにぎわったところで、

”前途三千里の思ひ”を胸に、ここ千住より陸奥国をめざした芭蕉の往時が偲ばれます。

日光街道千住宿の次の宿場は草加です。

今日はここ草加からの出発です。

東武伊勢崎線の草加駅、日光街道の石標を目指し、その先の札場河岸公園、

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芭蕉像がたっていました。

台座の裏に”若し生きて帰らば・・・”

と刻してあります。

芭蕉の並々ならぬ、決意の程が伺われます。

道路際に”梅を見て野を見て行きぬ草加まで”

正岡子規の句碑もたっていました。

道をさらにすすむと

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松並木です。

綾瀬川沿いに1.5キロにわたっての草加松原の並木道、

往時の日光街道の面影を今に伝えるものでしょうか。

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遊歩道にある奥の細道にちなんだ歩道橋。

まず矢立橋。

矢立は、芭蕉に欠かせないお道具です。

Img_4535 次いで百代橋。

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橋の袂には

”月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅なり”

が刻まれた石碑が建っていました。

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松並木の最後には、こんなレリーフが、

同行した門人曾良と一緒の旅姿です。

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牛に乗っている芭蕉です。

当時は牛に乗ったのですね。

さてバスは草加を後にして、春日部から利根川を横切り、

武蔵野国(埼玉)から下総の国(茨城)の室の八島・・・むろのやしま

(芭蕉が最初に訪れた地)へと向かいます。

車窓から、幅2mにも満たない細い道が平行に続いているのがみえます。

この道こそが芭蕉の歩いた旧日光街道です。

当時の道は今よりもっと狭く、草はぼうぼうに生え、砂埃で、でこぼこ道であった。

そして、芭蕉がここを歩いたその日は、朝から雨、一日雨であった、

と、書き物には記されているそうです。

背中に食い込む荷物が辛いとも書かれているそうです。

街道沿いは宿場町、たくさんの歴史ある神社、寺院が並んでいました。

これらの寺院は特に芭蕉にはゆかりはないのですが、それぞれのお寺には、

芭蕉の句碑が建っていました。

ただ、この東陽寺、”某日、漸草加と云う宿にたどり着にけり”と奥の細道には書かれています。

最初に宿泊したのがこのお寺さんではないかと言われているのですが、

同行した曾良の”随行日記”には”カスカベニ泊ル、江戸ヨリ九里余”とあり、

としるされており、最初の宿泊地とされる確かな証拠はないそうです。

言い伝えられている芭蕉の足跡を、少しでも感じたかったのですが、

残念ながら、このお寺には、日曜日のため法事が入っていて見学はできませんでした。

バスは大きな利根川を通り抜け、喜沢の追分、宇都宮(日光街道)、そして鹿沼(壬生街道)への分岐点に入りました。

芭蕉はここで、壬生街道をすすみ、栃木市の惣社町にある室の八島へと向かうのです。

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千住を出発して二日目、最初に訪れた地、

大神(おおみわ)神社・室の八島です。

社殿の近くの杉木立の中には、池があり、八つの島があり、ミニチュアでしたが、浅間、筑波、鹿島、香取,雷電、熊野、二荒の各神社および天満宮様がと祀ってありました。

そしてこの八島の池のほとりに

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”糸遊に結びつきたる煙かな”

と芭蕉がここで詠んだ句碑がたっていました。

糸遊とは、いまでいうかげろうのこと、

池より立ち上がる陽炎が余りに美しく幻想的であったといわれており、こんな光景を芭蕉が見たのかそれとも、空想した光景を詠んだのか・・・・。

慣わしとして、歌枕として室の八島の地を詠むときは煙にちなんだ歌を詠まなければいけないことになっていたのだそうです。

芭蕉も伝統に従って、煙を詠んでいます。

芭蕉は、都人の歌人たちの歌心を知りたくて、

ここ、室の八島を訪れたとも云われています。

う~ン・・・、私の見た限りそんなに魅力のあるところとは感じなかったのですが・・・。

昔は、もっと風情のある地だったのでしょうか・・・。

たまたまその日、神社の境内では、骨董市が開かれており、

たくさんのお店が並んでいました。

何かそちらの方に興味をそそられてしまった私でした(笑)。

さて、芭蕉さんは次回は日光、東照宮へと向かいます。

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奥の細道の足跡を訪ねて

日曜日の夕刻襲った、とてつもない豪雨は、

あの,じとじとむしむしとした陽気を連れ去っていってくれました。

やっとやっと、さわやかな秋の陽ざしを迎えています。

なんとすがすがしい朝なのでしょう!

太陽はキラキラと輝いて、空は天高く澄み渡り、そよぐ風のさわやかなこと。

気持ちの良い風に吹かれて、

どこかに歩きに行きたい気持ちが、ふつふつと湧いてきております。

さて先日の日曜日、友だちに誘われて、とある旅行会社の企画する、

俳人、松尾芭蕉の、”奥の細道を訪ねる”というツアーに参加してまいりました。

この企画、一年かけて、芭蕉の足跡を訪ねる旅、

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草加から日光、那須、白河の関、松島、

平泉、酒田、象潟、福井敦賀を経て岐阜大垣まで2400㌔にもなる旅です。

”月日は百代の過客にして、行き交う人もまた旅人なり”・・・・・・で始る奥の細道。

この足跡を尋ねる壮大な旅、前から興味はあったもののなかなか現実とならず、友だちよりの誘いに、すぐさま、行く!と返事をしてしまったが・・・・、

果たして、最後までたどり着けるか、自信のない私、でも、長らく心に思い描いていた旅が、目の前にぶら下がっている。

友だちと一緒にがんばってみようかと、第一歩を踏み入れる決心をしました。

そして、シリーズ第1回目、深川から千住までの、芭蕉旅立ちの一歩からの始まりです。

徳川幕府の4代将軍家綱の時代、29歳の芭蕉は生まれ故郷伊賀上野を後に

一流の俳諧師を目指して江戸、日本橋へとやって来たのです。

住処を、日本橋から深川に移し、ここに芭蕉庵を築くのです。

今でこそ近代的なビルの谷間の下町の風景が広がっている深川ですが、

当時は、オギやアシの茂る湿地帯、

人家もまばら、何もない地には富士山も良く見えるところでした。

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こんな感じの芭蕉庵でした。

地位も名誉も何もいらない、俗世間を捨て、

自ら求めてこの”わびしさ”に浸ったのです。

そしてこういう環境の中で、あの有名な句

”古池や、かわず飛び込む、水の音”

が生まれたのです。わずかな物音がしてかえって静かさが深まる境地、

芭蕉のわび、さびの世界です。

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深川にある清澄庭園の一角にカエルの句碑が立っていました。

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今は都民の憩いの場になっている清澄庭園、

芭蕉の時代、豪商紀ノ国屋文左衛門の別邸でありました。彼は芭蕉のよきスポンサーであったとも言われています。

お弟子さんもたくさん増え、自然の心、自分の気持ちを素直に歌えるようになった芭蕉、

これこそ自分が求めていた俳諧の姿が見えてきた矢先に、大火に見舞われ、

江戸の町は一面焼け野原、もちろん芭蕉庵も焼けてしまいました。

弟子たちの助けで新しい芭蕉庵に落ち着いた芭蕉、ですが、ふるさと上野に帰郷をかね、東海道へ西へたどる旅にでたのです。これが“野ざらし紀行”41歳の時です。

”野ざらしを心に風のしむ身かな”
”山路来て、なにやらゆかしスミレ草”

いずれも野ざらし紀行の中の句、大好きなのでちょっと載せました。

46歳になっていた芭蕉、漂泊の思いがまた湧いてきたのです。

今度はまだ行ったことのない北の道、への旅です。

たくさんの弟子たちに見送られ、弟子の一人の河合曽良と共に、千住から、奥の細道へと旅たつのです。

”行く春や、鳥啼き魚の目は涙”

(春はもう過ぎ去ろうとしている。去り行く春の憂いは人だけではないらしく、
鳥は悲しげに啼き、水の中の魚の目にも涙が溢れているようだ)

最愛の弟子に杉山杉風(杉山さんぷう)という人がいて彼は幕府御用達のお魚屋さんでした。芭蕉を最初から経済的にも応援していた人でした。魚の目はこの杉風への別れの涙を詠んだのだといわれています。

Img_4163_2 芭蕉、旅立ちの姿です。

ここは杉山杉風の別荘であった

”採茶庵”(さいとあん)です。

今の千住大橋のすぐ袂にあります。

ここが芭蕉の奥の細道へのスタート地です。

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